こんにちは、もこじーです。
推し活やってますか?
推しがいると人生は楽しい!
「推し活」とはイチオシのタレントやキャラクターなど「推し」を応援する活動のこと
まだ自分の推しが見つかっていないという「あなた」。そんなあなたには、大阪プロレスのレスラーを自分の推しにすることをお勧めします♪
大阪プロレスのレスラーはこんなに素敵
1、会いにいけるアイドルである
試合やイベントで会える、話せる、一緒に写真も撮れる、サインももらえる!大阪プロレスのレスラーは、みなさんとっても紳士でフレンドリーです♪
2、子どもが喜ぶ
強くてかっこよく、優しく、面白い。そんな大阪プロレスのレスラーは子どもたちにも大人気。親子で応援できるので、親子の絆が深まること間違いなし!
3、笑いあり涙あり、大阪で最高のエンターテイメントである
大阪プロレスは知れば知るほど奥が深い。今の時代、YouTubeなどで昔の試合も見ることができる。大阪プロレス=お笑いのイメージが強いかもしれないが、かっこいい試合、感動の試合も盛りだくさんなのである。
ストーム オブ アカプルコ ツバサ(大阪プロレス)
そんな大阪プロレスを100倍楽しむためには、選手のことを知るのが一番!
と言うことで、今回はストームオブアカプルコ「ツバサ」さんをご紹介したいと思います。
ケブラーダ。48歳でこんな動きができるツバサさんが素敵。
ツバサさんのプランチャは日本一!
おとなしかった少年が「ツバサ」になるまでの物語
※今回は幼少期のお写真がありませんが、メキシコ時代の貴重なお写真をたくさんお借りしましたので、お楽しみください!
ツバサさんは、1973年岐阜県土岐郡笠原町(現:多治見市)に男三兄弟の長男として生まれました。幼少期の記憶があまりないとのことでしたが、保育園時代に覚えていることは
・3歳にして30〜40分歩いて保育園に通っていたこと
・保育園の砂場にモグラがいたこと
・トラックの荷台にクジラが積まれてやってきて、見せてもらったことだそうです。ツバサさんの強靭な肉体の秘密は、この登下校にあったのではないかと思います。モグラとクジラが記憶に残っているということは、動物好きな一面があるのかもしれませんね♪
小学校から高校まではスポーツ少年だった
小学校に上がっても、おとなしく自分からは何もしない子だったツバサ少年。小学校ではスポーツ少年団で野球とサッカーを始めます。野球は親に言われて、サッカーは「キャプテン翼」に影響を受けて始めましたが、走るのが得意ではなかったので、あまり実力が発揮できなかったそうです。でも、家でプロレスの中継を見るのは好きで、アントニオ猪木と初代タイガーマスクを応援していました。
中学校では剣道を始めます。これは漫画「六三四の剣」の影響。周りは子供の頃から剣道やっている子が多かったのですが、中学生になって始めたツバサ少年はメキメキ実力をつけていき、中学校の最後の大会で個人優勝。団体戦では大将を務め、周りから「絶対負ける」と言われていた相手の大将にも勝利しました。中学3年間は剣道づけ。「コテが得意で、必殺技が決まったら勝てた」とツバサさん。当時から必殺技を持っていたところがツバサさんらしいですね。
高校は進学校へ
そんなツバサさんですが、高校は推薦で進学校へ進学します。
でも、勉強が嫌いだったツバサさん。「親は大学に行かせたかったんだけど、自分はどっちでもよかった。でも勉強は嫌でした。」
進学校なので、部活には入っていなかったけど、勉強もしていなかったとのこと。では、何をしていたのか?「高校には自転車で1時間半ほどかけて、ふた山越えて通っていました。みんなは電車とバスだったけど(笑)。理由は帰りに川に遊びに行けるから。学校には投網を持って行ってましたね。夏はずっと友達と川で水遊びしていました。」
プロレスラーになりたい
高校3年生になって、将来のことを考え始めたツバサさん。実は、この頃には「プロレスラーになりたい」という気持ちが芽生えていました。今までは、プロレスの試合を生で見ることがなかったのですが、スーパーの魚屋さんでアルバイトを始め、アルバイト代が入るようになり、たまたまプロレス好きの友達もできたことから、時々友達と一緒にプロレスを見にいくようになったことが理由でした。そこで、体力をつけるためにシュートボクシングのジムに通い始めます。
成績が良くなく、先生にも見放されていた
あまりにも勉強をしなかったため、就職についても進学についても学校は何も言ってくれなかったそう。仕方なく自分で就職先を探し始め、ある会社が採用してくれるということになリました。しかも、その会社から学校に連絡が行き、学校側が学校推薦にしてくれました。
順風満帆に就職が決まったと思いきや、その会社には夜勤があることが判明。「夜勤があったらシュートボクシングは続けられない」と、せっかく決まった就職を断ったツバサさん。このときは親にも学校にもめちゃくちゃ怒られたとか・・・。
メキシコに行くためにお金を貯めよう
就職は断ったものの、ツバサさんにはメキシコでプロレスをするという夢がありました。なぜメキシコか?それはツバサさんの憧れのレスラー「ウルティモドラゴン」さんがメキシコにいたからです。
そのために、お金を貯めよう。でもトレーニングの時間は削りたくない。
そこでツバサさんが選んだ職業が「新聞配達員」。新聞配達員になれば朝刊と夕刊の間の時間にトレーニングができる。そう考えツバサさんは新聞配達員を募集しているところを調べました。すると大阪と東京の新聞配達所の募集広告を発見。東京都世田谷区にある新聞配達所に連絡をしてみたところ、なんと所長が翌日、岐阜まで会いに来てくれることに!
ツバサさんにも負けないフッ軽所長!
その素早い対応に感謝し、ツバサさんは上京。その所長のもとで働くことになりました。
出会いは偶然ではなく必然である
2年間の労働契約期間を終える頃、所長から「知人がメキシコ大使館で通訳の仕事をしている」と聞かされたツバサさん。ちょうどメキシコから神父でプロレスラーの「フライ・トルメンタ」氏が来日していたので、連絡を取ってもらい「メキシコで面倒をみてくれる」という話になったそうです。まるで奇跡のような出会いですね。
フライ・トルメンタ氏(写真中央)
クエルナバカでスペイン語を学ぶ
1994年5月13日。ツバサさんはついにメキシコに渡ります。最初の2ヶ月はクエルナバカという街でスペイン語の勉強をしました。大使館職員の紹介でプールがある豪邸にホームステイをさせてもらい、スペイン語の猛特訓。日本から持ってきた貯金は100万円ほどで、この2ヶ月で1/3ほど使ってしまったとのこと。
ホームステイ先の家族との一枚
ホームステイ先はプール付きの豪邸でした
クエルナバカの学校のビルヒニアメサ先生と
ついにルチャ・リブレのトレーニング開始
7月にはテオティワカンにある、トルメンタさんの孤児院に移り、ルチャ・リブレ(スペイン語でプロレス。特にメキシコのメキシカンスタイルのこと)のトレーニングが始まりました。
こちらが孤児院のエントランス
孤児院「カチョーロス・デ・フライトルメンタ」のツバサさんのお部屋。
孤児院で空中殺法の練習をしているツバサさん
クエルナバカでは、お金持ちの家で過ごしていましたが、孤児院は「トイレの扉がなく、水も流れない」「カチカチのパンを牛乳に浸しながら食べる」「リングは板の上にボロ布を敷き詰めたマットに、ロープはワイヤーが剥き出しで、なぜか犬のトイレになっており、練習は犬のフンを掃除することから始まる」というような場所でした。ツバサさんは「これがメキシコなんだ」と感じたと言います。
「孤児院に行ってすぐの頃、みんなが飲んでる井戸水を飲んでたらB型肝炎に感染。高熱が出て(病院に行ったかどうか覚えていないが)薬局に行ったら『チョコレートやハチミツを食べろ』と言われ、孤児院には寄附で集まったチョコレートがたくさんあったので、チョコレートばっかり食べていたら治りましたが、このまま死ぬんじゃないかと思っていました」
悔し涙のメキシコデビュー戦
1994年12月3日 メキシコ デビュー戦
デビュー戦は本名&素顔で出場 ツバサ&フライ・トルメンタ&ケンジ組
デビュー戦はイダルゴ州バチューカ。この試合は「日本人プロレスラーがやってくる」と大々的に宣伝されていて、ポスターにも大きく名前が載っていました。会場に着くとたくさんの観客に囲まれてサインを求められるほどの盛り上がり。
しかし、練習した事は何一つできず、試合後は悔し涙が止まらない!最初は嬉しくて泣いていると思っていた周りの選手も、30分以上泣き続けるツバサさんをみて状況を察し、帰りのバンの中ではずっと慰めてくれました。
この時の悔しさが、ツバサさんの原動力になっていたのですね。
デビュー2戦目のツバサさん。コスチュームはシュートボクシング時代のもの。
マスクマンに憧れていたツバサさんは、自分でデザインしたマスクとコスチュームをつけ、試合に何度か出場するようになります。そんな時フライ・トルメンタに日本での試合オファーがありました。(自分にはオファーは無かったけれども)自分も一緒に日本に行こうと思い、自腹を切り一時帰国をします。
「当時はマスクもできて2−3試合して舞い上がってたのだと思います。」とツバサさん。
しかし、日本からメキシコに戻ったときに虚しさを感じたツバサさん。
「自分まだプロレスラーとして何も成果を出さず一旦帰って、地元の友達に会って【プロレスでメキシコ行ってるんだ】って話をして、そこで「俺全然まだプロレスで何もしてないや」って気付く訳ですよ。ただメキシコに来たって言う事実だけで、それを自慢したい自分が居たんですよ。それに気付いて、自分に腹立って。何かレスラーとして成功するまでは絶対帰らないって決めたんです。」(くいしんぼう仮面ブログより)
次に日本に帰るときは「呼ばれ(オファーを受けて)て帰ろう」と思ったツバサさんでした。
自分がデザインしたマスクが完成した日、マスク職人のブシオ親子と
マスクをつけて試合に出るツバサさん
さらなる飛躍を目指して
約10ヶ月間トルメンタの孤児院で基礎を学んだツバサさんでしたが、次のステージを目指しメキシコシティに移ります。そこでプロレスのジムを色々回った結果、エスペクトロJr.とカダベル・デ・ウルトラトゥンバの兄弟が運営するジムで指導を受けることにしました。
このジムを選んだ理由は、熱心に誘ってもらったことと、日本人のレスラー「忍」さんがいたこと。【メキシコに来た当時は「日本人とは絡まない」と思っていたが、今思えばやはり不安な気持ちがあったのかも知れない。】と当時を振り返りツバサさんは言います。
ジムが決まり、住む場所が決まるまでは近くのホテルに「1ヶ月泊まるから安くして」と交渉して滞在。当時はまだ生活費の蓄えがあったので、朝7時から3時間練習し、昼食を食べてまた練習という生活でした。
そこでは、すぐに実力が認められレベルの高いクラスに通うことに。マンツーマンで技やレスリングを教えてもらい、メキメキ成長するツバサさん。先生たちもツバサさんを興行のメインで使ってくれるようになりました。
そのうちCMLLのプロモーターの目に留まり、ちょこちょこ試合が組まれるようになってきたのですが・・・・
師匠のエスペクトロJr.とカダベル・デ・ウルトラトゥンバ
ついに資金が底をつきそう
「全てが順調」そう思っていた矢先、ついにお金が底をつき始めます。当時はめちゃくちゃ円高になっていたのでなんとか生き延びていましたが、このままではどうしようもありません。そこで、先生に「日本に帰ってお金を稼いで戻ってきます」と相談したところ、先生がツバサさんのために住むとこを探してくることになりました!
そこは、メキシコの3大会場「ピスタアレナレボルシオン」の倉庫でした。
しかも、先に住んでる人がいました(笑)
ピスタアレナレボルシオン管理人家族との一枚
次は食を確保
住むところは確保できたので、食事を確保しようとメキシコシティの日本食レストランをまわって、「お金はいらないからご飯だけ食べさせてくれと」とお願いしていると「レストラン東京」のオーナーが、「ご飯をいっぱい食べろ」と受け入れてくれました。朝は練習、その後レストランで働いて、夜は会場の掃除をして、となんとか日本に帰らずにメキシコに踏みとどまったツバサさんでした。
レストラン東京でのアルバイト時代
デザインを変えた2代目マスク。ツバサが生えましたね!
ルチャ・リブレのライセンス
ついにツバサさんに転機が訪れる!
メキシコに行っても、全く会うことができなかった憧れのウルティモドラゴン。ついに、対面の日が訪れました。
1997年4月4日。メキシコで行われるトーナメントの試合に、日本人代表としてツバサ、忍、ウルティモドラモンがノミネートされました。
「最初挨拶に行ったときはめっちゃ怖かった。」とツバサさん。
組み合わせ抽選会の結果、1回戦でウルティモドラゴンとのシングルマッチが決まりました。すごいミラクル!結果、試合は2〜3分でボコボコにされましたが、試合後「お前できるな」と声をかけられたツバサさん。「一緒に練習しないか」と言ってもらい、そこから交流が始まりました。
時を同じくして、闘龍門ジムの誘いも受けたツバサさんは、ウルティモドラゴンから直接技術を学び、さらに実力をつけていきました。また、ウルティモドラゴンとの試合が日本でも大きく紹介され「世界のウルティモドラゴンが認めるルチャドール」としても脚光をあびます。
ついに日本でのデビューも決定!しかし更なる試練が・・・
CMLLジャパンツアーのメンバーにも選ばれ、日本デビュー戦が決まっていたツバサさんでしたが、直前のアメリカ遠征で新日本プロレスの永田選手とシングルマッチをした際、フロントスープレックスで頭からマットに叩きつけられ、首の怪我をしてしまいます。
アメリカからメキシコに帰ってきても、眩暈が治らず、フラフラの状態で日本デビュー戦をむかえることになりました。
「帰国して新宿駅からホテルに歩いて行く距離で、(みんなについていけなくて)迷子になったほどでした。もちろん次の日の試合は体調が悪くて台無しでした。」
精密検査をした結果、「首の骨がずれている」ことが判明。そこからは首にコルセットをはめての生活になりました。
静養期間は何もできず、ピスタアレナレボルシオンの倉庫にも居づらくなったツバサさんは、有名な日本人宿「ペンションアミーゴ」に移ります。そこで管理人をしながら静養し、4ヶ月で復帰。CMLLジャパンのリベンジ戦で再び日本に呼ばれます。
その試合で大阪プロレスの創設者「スペルデルフィン」選手と出会った事から、大阪プロレスでのツバサさんが誕生しました。
ここまでが大阪プロレス「ツバサ」誕生までの物語。
意志ある所に道は通じる
ペンションアミーゴには、色々な旅人が来ましたが、その中には旅行家の藤原かんいちさんもいました。藤原さんは原付で南米を横断している最中で、プロレスが好きだった事もありツバサさんと意気投合。藤原さんの座右の名は「意志あるところに道は通じる」でした。ツバサさんの20周年興行のポスターの題字はなんと、藤原さんに書いてもらったものなのです。
ツバサさんのもう一つの顔
実はツバサさんは理学療法士もされています。日本に戻ってきてプロレスをやりながら32歳の時に理学療法士の学校に通い始めます。
理学療法士を目指したきっかけは「右ひざの前十字じん帯断裂」という重症を負い、さらにケガからの復帰戦でじん帯を再断裂し、長期欠場を余儀なくされたこと。「1回目の手術をしてリハビリに通っていたパンジョスポーツクリニックの大里先生との出会いが大きかったですね。毎日そこに通ってリハビリをしていて、先生もスタッフもスポーツでの怪我に精通した人ばかりで。素敵な仕事だなと思いました。」
間近で見ていた理学療法士や義肢装具士。「プロレスは、いつまでもできるものではないし、一度挑戦してみようと調べてみたら、家の近くに理学療法士の専門学校があったので受験しました。ちなみに義肢装具士の専門学校は三田だったのでちょっと通えないなと」
専門学校の試験に合格し、夜間で4年間通い理学療法士の国家資格にも合格したツバサさん。
このエピソードも強靭な精神力と、強い意志を感じますね!
今後のツバサさんの展望は?
「理学療法士があるので、プロレスで大きな怪我をしてしまうと両方ダメになってしまう。その辺を考えながらも、中途半端なものはリング上では見せたくないので、全力でリングに上がるというのは当たり前です。今は自分の動きには納得できないけれども、ファンの皆さんが見たいと思ってくれるのであれば目指すは50歳の記念大会と30周年記念大会。そして大阪プロレスが頑張ってるので、力になれればと思っています。」
ツバサさんへママ記者達からの質問
Q:プロレスって子供がやりたいと言ったらどこに習いに行かせたらいいんですか?
A.体操教室がいいと思います。プロレスの動きと共通する運動神経を身につけられます。身近なものであれば、水泳教室も体力がついていいと思います。
Q:子どもが真似をしたがるんで、危険な技とか真似していい技とかありますか?
A.技にもよりますが、親御さんとのスキンシップであれば、親の責任で相手をしてあげてください。怪我のリスクは常にあると思いますのでくれぐれもお気をつけて!
Q:旦那に技をかけたいのですが、ママでもできるプロレスの技はありますか?
A.技をかけたい理由によって様々ありますが、子供が悲しまない程度にしてあげてください。
Q:子供の喧嘩を仲裁するのにいい技は?
A.プロレスの技では両方とも泣かす事しかできません。他の方法で仲直りさせてあげて下さい。
Q:護身術に使える技はありますか?
A.リストロック。手首の極めかたを習得して下さい。
Q:朝のルーティンはなんですか?
A.2口くらいの量のブラックコーヒーを毎日飲みます。特に意味はありません。
Q:夜のルーティンはなんですか?
A.2種類の歯磨き粉での歯磨きとモンダミン。
Q:女性が筋肉をつける方法は?
A.筋トレを頑張るのみ。
Q:ぶら下がっていいですか?いいなら、何キロまでいいですか?
A.ダメです。若いレスラーに頼んで下さい。
Q:殴られたら痛いんですか?女性に殴られても痛いんですか?
A.痛いです。誰に殴られても痛いです。
Q:プロレスラーになってなかったらどんな職業についてたと思いますか?
A.旅人
Q:心に残っている映画はありますか?
A.レナードの朝
ツバサさん、ありがとうございました!
それではかっこいいツバサさんギャラリーをどうぞ
あ、バファローさんだ!
大阪プロレスを観る前にこれを読むと100倍楽しめる!?
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3人の男の子のママです!